長い年月を経てもなおカタチをとどめている建造物が、全国には多くあります。 それらには先人の叡智、技術の粋が結集されており、人々の暮らしの中に溶け込みつつも、現代の建造物にはない独特の存在感を放っています。
そんな土木遺産を多くの方々に知ってもらいたい。そして、土木遺産を後世に伝えるために記録として残しておきたい。そんな想いから、フォトギャラリーコンテンツ『写真で巡る、土木遺産』(本企画)がスタート。
フォトグラファーとモデルとともに、全国にある土木遺産を巡り、その建造物の魅力に迫っていきます。9回目となる今回は、東京駅から新橋駅の南まで達する「新永間市街線高架橋」を訪問。
この「新永間市街線高架橋」は、1890(明治23)年に決定した東京市区改正設計(東京の都市計画)で中央停車場(東京駅)とともに計画されたもので、ドイツからフランツ・バルツァーを招致し、ドイツ・ベルリンの高架鉄道と同様に、煉瓦構造の連続アーチを基本として設計されました。
現在も、山手線と京浜東北線の電車が複々線で往復していおり、人々の生活には無くてはならないライフラインとして活躍しています。
それでは、土木遺産を巡る小旅行へ、いってらっしゃいませ〜。
新永間市街線高架橋(東京)
平成22年度の選奨土木遺産。新銭座(現在の東新橋付近)と永楽町(現在の大手町付近)を結ぶことからこの名がつけられた「新永間市街線高架橋」・建設後、100年以上を経てもなお、当時の姿のまま現役の高架橋として活用されている。
市街地高架橋は、1890(明治23)年に決定した東京市区改正設計において、現在の東京駅とともに計画された。この計画は、新橋駅と上野駅の間に市街を縦貫するため高架鉄道を建設し、東海道線と東北本線を直結するとともに、その中間に中央停車場を設置するという一大鉄道計画であった。
しかし、1887(明治20)年当時は、日本にまだ本格的な高架鉄道の設計・施工のノウハウがなかったことから、これを実現するためにベルリンの高架鉄道を担当したドイツ人技師フランツ・バルツァが招かれた。ベルリンの高架鉄道と同様に、煉瓦構造の連続アーチを基本として、道路との交差部のみに鉄桁を用いた。鉄桁は列車通過時の騒音が大きいため、バックルプレートと呼ばれる鉄板で床面を被い、内部に砕石を敷き詰めて線路を敷設。
1909年に烏森(現在の新橋)までが完成し、翌年の1910年には東京駅の北側に設けられた呉服橋仮駅までが全通。そして、1914年には東京のシンボルとも言うべき中央停車場(東京駅)が完成した。(参考:https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/583/ http://www.dobohaku.com/tokyo/ja/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9039%E6%96%B0%E6%B0%B8%E9%96%93%E5%B8%82%E8%A1%97%E7%B7%9A/)
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